正直に生きることが私らしさ
クリスチャンになって初めて気付かされた事。
まず、「偽る私自身に気がついた」「ブランドで身を固めて飾りまくって生きてる自分に恥じた」「自分さえ良ければいいと思ってた事にも恥じた」「心を開いてない私自身にも気がついた」「近寄りがたい人と言われてた意味が分かった」。
そして、クリスチャンにまる前の私が思ってた事。
「私はどうなってもいいとしか思ってなかったし、私は私でいいとしか思ってなかった」「どうせ誰にも必要されてない私なんだから、今更どう変わろうとなんの意味もない」「愛という意味も知らなかった」「愛を疑い続けてた」「愛は裏切ることも簡単にできるものだと思ってた」「愛は形であるべきだとも思ってた」「着飾る事で満足を得てた」。
でも、クリスチャンになってそれが間違いだったと気付かされました。人は目に見えるものは信じるけど、見えないものに対しては不安を感じる。だから、ヤキモチもやく。それは、恋愛に対しても、友達や家族に対してもです。でも、愛というものはそうじゃない。聖書に『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。コリントン1 13章4節』を読んだとき、私は涙が込み上げてきました。そして、絡み合った紐がほどけていった。いつ死んでもいいと思ってた人生に少しずつ光がさしてきた。私は愛に対して恐れてもいたんです。誰からも愛されてなかったと思い込んでた事や、友達や恋人からの裏切られた事などで、人を愛することを恐れてた。だから、愛を形で求めてた。
そして、聖書に『愛に恐れはありません。全き愛は恐れを締め出します。ヨハネの手紙1 4章18節』と、あります。今まで私が感じてた愛や与えてた愛は条件付きの愛だったと、気付かされました。でも、聖書には『愛に恐れはありません』と、あります。私はまた泣いた。そして、これからは無条件の愛で私を愛してくださる神様を通して全てを見ていこうと思った。
ブランドさんサヨナラ
私は今までどんなにブランドで身を固めても一時的には満たされても、また渇き、また買うの繰り返しでした。だけど、聖書の『13:この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14:しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。ヨハネの福音書4章13〜14節』を読んだとき、直ぐに私だと分かった。心が乾くという表現にまた泣いた。聖書はどんどん私の心の奥まで入っていく。そして、私を導いてくれるのです。私はそれを知ったとき、ブランドもの全てを質屋に売って、スーツや服類などはチャリティーに出しました。今でも私のうちでは決して乾くことのない永遠のいのちへの水がわきでてます。