ママ失格だった
私が最初の結婚で長男を出産したときはまだ17歳でした。私は絶対に産みたかったけど、周りは猛反対。産婦人科の先生まで反対した時代です。それでも私はそれに抵抗して1人で他の産婦人科に行きました。
実は、妊娠と知る前に私は長男の父親が運転するオートバイの後ろに乗って事故を起こしました。急にUターンしてきたタクシーに打つかって、私はそのまま反対側に飛ばされてしまいました。検査の結果、腎臓から少しだけ出血があっただけで、あとは大丈夫でした。たけど、そのときに妊娠してることが分かったのです。
事故で検査を受けたときにレントゲン検査で赤ちゃんに悪い影響があるかもしれないと言われたので、周りは余計に反対をしてきました。だけど私は納得がいかなっかたので、1人で行った産婦人科の先生に相談をしてみました。そしたら「赤ちゃんに影響してるのであれば流れる可能性もあるけど、まだ2ヵ月なので様子をみてもいいと思います」と言われました。
私はまだ17歳で子供だったけど、どうしても欲しかった。だから、母親にお願いをした。母親には本当に苦労させました。母子家庭で生活も大変だったはずなのに、私の願いを叶えてくれた母親には感謝です。
そして、無事に男の子を出産。そのときにみた私の赤ちゃん。誰よりも私の赤ちゃんが1番可愛かった。強く抱きしめても抱きしめ足りないぐらいだった。
長男が生まれて間もなくしてから私たちは離婚をしました。そして、私は長男を手放し、自分で育ててあげられなかった罪に苦しんだ。会いたくても会えない。友達の明美と一緒に長男が通う学校の校門前でひとめ見ようと車の中で待ったこともあったけど、会えなかった。ほんの一瞬さえ見れないのも”身から出た錆”だと思った。そして、今度は長男が通う高校の近くのバス停で長男がいるんじゃないかなと思って探したけど、そのときもまた見ることがえきなかった。一生会えないのかもと思う自分に「いつか絶対に会えると信じよう」と言い聞かせた。
クリスチャンになったとき、私は長男のことを祈り続けた。そして、5年間祈り続けたとき、悪友のなっちんから連絡がきた。長男の父親が私に息子を会わせたがってるという連絡だった。私は信じられない奇跡に感謝の祈りをしました。そのとき、私はアメリカに行く数週間前だった。長男に会えないままアメリカに行くことが1番つらかったから、会えると知ったときには涙がでた。そして、長男の父親と連絡を取って長男と15年ぶりに再会をしました。飛びついて抱きしめたかったのが本音だったけど、グッと堪えた。今度は、触れてみたくなった。だけど、それもまたグッと堪えた。もう、話すより抱きしめたかった。ただそれだけだった。
長男と自由に会えるようになったけど、私はアメリカに行かないといけない。つらかった。そして、最後に会ったとき、長男から手紙をもらいました。ホテルに戻って手紙を読んだら、最後に「お母さん僕を生んでくれてありがとう」とありました。私は号泣して、心がはち切れそうになった。せっかく会えたのにまた離れないといけない。こんな残酷なことがあるのと思った。これもまた”身から出た錆”なのと、自分を責めた。でも、そうではないんですよね。長男の手紙には「お母さんに会ってみてすぐに笑い方が好きになりました。いつまでも笑っていてください」とありました。笑ってないと長男を悲しませるから、私はもう泣いてないよ。