私の体験談:心の傷を乗り越える
私がこの記事を書いた理由は『克服したい』という強い気持ちがあるからです。
また、『話す』ことの大切さを感じていることも、ブログを始めた理由の一つです。
心理的虐待の始まり
両親が離婚し、私が小学5年生になった頃に自ら父親と暮らすことを選びました。
母親と妹と離ればなれに暮らすことはとても寂しかったけど、そのときは父も父親の家族も大好きだったので、それでいいと思ってました。
父の仕事は朝が早く、夜は遅く帰ってくる生活だったため、ほとんど父と会うことがなかった。
私はいつもおばーに「父ちゃん何時に帰ってくるの?」って聞いてたけど、祖母も知りませんでした。
そんな生活を続けていくうちに、私は次第に叔母や叔父から言葉の暴力を受けるようになりました。
叔母に「お前(私のこと)はバカだから、運転免許も取れない。みんなから笑われるさー」と言いながら大声で笑い、もう1人の叔母からはずっと無視されて、叔父からは人前で「バカ」と呼ばれて深く傷つきました。
話し相手もいない家で毎日過ごしていると、これまで気にも留めなかった些細なことが、次第に私の心を締め付けるようになりました。
それは、母親と手を繋いで歩いている子どもを見ると、とても羨ましく感じました。
また、姉妹で遊んでいる子どもを見ると、妹と一緒に遊んだことも思い出しました。
夕方になると、他人の家の塀越しに家族揃って夕食を囲む光景を覗きに行くこともありました。
『あのまま母と妹と暮らしていたら、ひとりぼっちにならずにすんだのに。』
『あのまま母と妹と暮らしていたら、大声で笑う日々が続いていたのに。』
『あのまま母と妹と暮らしていたら、1人でご飯を食べることもなかったのに。』
私は何度もそう思い返しながら、父と暮らすことを選んだ自分を深く後悔しました。
今ではどうかわかりませんが、昭和の時代は両親が離婚すると、子供が成人するまで親権のない方の親には会わせないというのが当たり前の風潮でした。
私自身も当時、父や叔母から「母親に会ってはいけない」と強く言われていたため、どんなに無視されてバカにされようが、「バカ」と呼ばれていようが、後悔しようが、私はただ我慢するしかないと思っていました。
小銭集め
いつも通るバス停前のせともの店に入ってみた。
店内を歩き回っていると、可愛いキャラクターが入った食器を見つけました。
私はそれを手に取り「この食器を使って妹と一緒にご飯を食べたいな」と思ったと同時に、胸がギュッと締め付けられるように苦しくなりました。
初めて経験するその苦しさに涙がこぼれそうになり、慌てて家に帰りました。
そして、自分の部屋に飛び込み、ベッドで布団を頭までかぶりながら、大声でお母さんと妹の名前を呼んだ。
私はその日から母と妹に会いたいという気持ちを抑えることができなくなり、「バス賃さえあれば会いに行ける」と、悪知恵が働き始めた。
私は家中に散らばった小銭を夜中にこっそり集めて、往復のバス賃を何とか工面しました。
そして次は、誰にも気づかれないようにチャンスを見計らい、バス停までダッシュ!
バス停で、誰かに見つかるんじゃないかと怯えながらバスを待ちました。
無事にバスに乗ると、母と妹に会える喜びがじわじわと溢れてきました。
バスを降りると、私は母と妹が暮らす家へ向かって全力で走った。
「お母さん!」と大きな声で叫びながら家の中に飛び込んだけど、家中探しても誰もいない。
予想外の出来事に大きなショックを受けた。
懐かしい家と、生まれ育った田舎の匂いが胸を締め付けた。
泣きながら書き置きを残し、私は再びバスに乗り、帰りたくないあの家へと戻った。
学校
学校に行けば、たくさんの友達がいました。
ただ、私だけ家が遠かったため、学校以外で一緒に遊ぶことはほとんどありませんでした。
それでも友達から電話がかかってくることがあったので、私はそれがとても楽しみでした。
しかし、叔母が私宛の電話に出ると、私は「留守だ」と嘘をついて、何度も電話を繋げてもらえなかったことがよくあった。
学校が終わった後、グラフ作りのために友達の家に行き、楽しくおしゃべりをしながら作業していうちにいつの間にか外は真っ暗になってしまったことがありました。
家が遠い私は、誰かに迎えに来てもらわなければならなくなった。
でも、私は「どうせ電話をしても誰も迎えに来てくれない」と思ったので、歩いて帰ることにしました。
その帰り道は車が2台ギリギリ通れるくらいの小さな道で、墓もあり、街灯もない道。
10分ほど歩いてようやく薄暗い街灯が見えてきて、そこを通り過ぎると、家の明かりが見えてくる。
家に着いて「1人で墓道を歩いて帰ってきた」と言ったけれど、叱られることもなく、心配されることもありませんでした。
中学の夏休み
中学の夏休み、母と妹が近くに引っ越してきたと聞き、私はこっそり会いに行っていました。
そして、自分の気持ちを伝えようと思い、母に「また一緒に暮らしたい」と正直な思いを伝えました。
しかし、母の返事は「父親と話し合わなければならない」というものだった。
その言葉を聞いた瞬間、まるでどん底に突き落とされたような気持ちになり、心が折れてしまいました。
「これが大人の事情なんだ」と、まだ中学生だった私は理解することができなかった。
私はこっそり集めた小銭を持って家出をしました。
しかし、行くあてもない私は、母と妹が暮らすアパートの屋上で数時間座り込んでいました。
やがて退屈してしまい、まだ中学生だった私は見つかるかもしれないことも考えずに夜の街をウロウロしてしまいました。
すると、叔父に見つかり、無理やり車に乗せられて、戻りたくないあの家に連れ戻されてしまった。
家に戻ると、珍しく父がいて、私はとても驚きました。
「いざというときには、こうして私のために駆けつけてくれるんだ」と思い、私は嬉しい気持ちになりました。
しかし、父は私を見るなり「そこに正座しなさい」と言い、突然、私の顔を足で蹴った。
父の顔を見られて嬉しかったのに、いきなり顔を蹴られてしまい、私は混乱してしまいました。
心配をかけたことは私が悪かったけれど、突然現れて蹴られたあの瞬間は、今でも忘れられません。
もしあのとき、私が母に心理的虐待のことを話していたら、母はその日、私を父のもとに戻さなかったはずです。
でも、私はどうしても言えませんでした。
なぜなら、そのことを口にするのが怖かったからです。
私はやっと母親の元に戻ることが決まりました。
荷物をまとめながら、友達や運動会、修学旅行などの思い出の写真をカバンに入れようとしたとき、叔母がそれを見て「写真を持っていくことは許さない」と大声で怒鳴りつけ、全ての写真を取り上げてしまいました。
でも、先に1枚だけカバンに入れていた修学旅行の写真だけは持っていくことができ、今でも大切に保管しています。
最後の最後まで、私にいじわるした叔母でした。
最後に
さまざまな意見があるとは思いますが、心の傷の深さは人それぞれ違うということを理解することが大切だと私は感じています。
私はこの経験を通じて、多くのことを学びました。
心から感謝しています。
最後までありがとうございました(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾♡感謝♡
⭐︎ 聖書のことば ⭐︎
恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。(イザヤ41:10)
皆さんの上に神の祝福と恵みが豊かにありますように。
God bless you all. Thank you!٭(ㅅ˘˘)♡*.+゜